LOGINメッセージを送り終えると、仁は枕元にスマホを放り投げた。ベッドで寝返りを打ち、右腕を枕にして、仁はじっと窓を見つめた。サンスベリアは仁のことなどお構いなしに、すっと背筋を伸ばして天井に向かって葉を向けている。
仁はそっとベッドの表面を左手で撫でた。
目をつぶれば、あの夜のことが蘇る。
さらに強く目をつぶって、奥歯を噛み締めた。
目を開けると、やけにシーリングライトが眩しかった。目を眇めてゆっくりとベッドから起き上がった。窓辺のデスクに向かい、鍵付きの引き出しの鍵を外す。引き出しをそっと開けた。そこに入っていたのは、古びた手紙が一通だけだった。差出人は「高宮仁」。まだ拙い文字で自分の名前が書かれている。
仁はその手紙を手に取り、そっと撫でた。
「今度こそ……」
そうつぶやいて、再び手紙を引き出しにしまい、鍵を閉めた。
*
仁から「十分だけ時間がほしい」と言われ
有村の誘いを受けたはいいが、澪は気が進まなかった。あまりにも軽率なことをしてしまったのではないかと思う。 ほかに澪の誕生日をお祝いすると言ってくれる人はいない。有村と過ごす時間は楽しいものになるに違いない。 それなのに、澪の心は分厚い雨雲に覆い尽くされたように重かった。 ――せっかく誘ってくれたんだから、明日は楽しまないとね……。 仁からは、あの日、夕飯に誘われて以来、連絡がない。きっと澪のことよりも千華との時間を大切にしているからだろう。 もう、これ以上仁のことを考えるのはやめよう。 そう思っているのに、仁のことで頭がいっぱいだった。 次の日、午後五時から有村との打ち合わせが入っていた。有村から、「ちょっとした確認事項だけなので、一時間ほどお時間ください」と電話があり、打ち合わせをすることになった。 会議室でふたりきり。打ち合わせ開始と同時に有村が言った。「今日、この後はすぐに退社できますか?」「……あ。はい。なにも業務は入れてませんので」 有村と食事に行く約束をしていたから、元々定時で帰る予定にしていた。「よかった! じゃあ、この打ち合わせ終わったら、一緒に出ましょう。六時半にレストランを予約してるんですよ」 ぱあっと太陽のような笑顔を向けられ、澪は目を細めた。 有村の笑顔は、見ているだけで心があたたかくなる。きっと有村という人物が明るいからだろう。 もしかしたら有村は、澪と会社から予約したレストランまで一緒に行きたくて、この打ち合わせを入れたのかもしれない。 そう考えると、胸の奥が、くすぐったくなった。 直哉と付き合っていたころは、待ち合わせはいつも現地集合か、最寄りの駅前だった。 実際、打ち合わせはたいしたことなかった。前回までの確認事項の説明だけだった。 そんなこと、わざわざ顔を突き合わせて行わなくとも、メールで済ませることだってできる。それなのに、グ
実際、誕生日には特に予定がない。去年は直哉が一緒に過ごしてくれていたが、今年はそれもない。仁はきっと澪の誕生日なんて忘れているだろうから、誘っても来ないだろう。だからといって、自分から誕生日を教えるのは催促しているようで嫌だ。「今年は、ひとりで過ごす予定です。もし奈央さんが空いていたら、一緒に過ごしてもらおうかな?」 自虐風に笑いながら言うと、奈央は首を振った。「一応、その日は空けときな。なにがあるかわからないんだから」 奈央は「じゃあね」と手をひらひらさせて、オフィスに戻っていった。 澪はその後ろ姿を見送った。 ――なにもないと思うんだけど……。 手元のスマホを見つめた。仁の返事の《そうか》という言葉が、やけに沈んで見えた。 翌週の月曜日、グロウセオリーの会議室で真壁と有村と打ち合わせを行った。先行予約では好評だったが、本格販売が始まったとき、どれほどの人が購入してくれるのかはわからない。先行予約に間に合わなかった人や見逃した人、さらに市販の化粧品が肌に合わない人にも届くようにしたい。「サンプルをお渡しできたらいいんですけど、セミオーダーだから難しいですよね……」 澪が真壁に確認すると、渋い顔をされた。「そうなんですよね。処方が同じならパウチのサンプルが作れるんですけど。今回のOnlyé for youはそれぞれの肌質に合わせてセミオーダーですから……。ただ、実際に使っていただくのが一番なんですけどね」 真壁とふたりでうなり声を上げた。「先行予約をしてくださった方って、以前、Onlyéを使われていた方ですか?」 有村が口を開いた。澪が驚いて有村に顔を向けた。ホームページや広告のデザインにしか興味がないのかと思っていた。だから、有村が商品のことを聞いてくるとは思わなかった。「そうですね。ほぼ全員が既存客です」「だったらやっぱり、使ってもらわないことには新規顧客の流入は難
急いで会社に戻って、席に座る。息を整えようと大きく深呼吸をするが、うまく息ができず、苦しい。紙袋の持ち手を、すごい力で握っていたようで、ありえないほどしわくちゃになっていた。「仕事……しなくちゃ……」 本当は仁に差し入れを持っていったら、少しダーマコードで打ち合わせをして直帰する予定だった。しかし、それが叶わず会社に戻ってきたのだ。 首筋に汗がにじむ。 しわくちゃになった紙袋を、澪はデスクのいちばん下の引き出しに押し込んだ。奥のほうへ、見えなくなるまで。それから、そっと引き出しを閉めた。 ようやく、息は整ってきたものの、胸の奥に、薄い刃で切り刻まれたかのような重い痛みが走る。 何度も深呼吸をして、ようやく頭が回るようになってきた。 ダーマコードのビルの前で、仁が千華を抱きしめているように見えた。人目を憚らずにあんなことをするのだから、澪の入る隙は一ミリもないということだ。 つまり、縁談は本当にあり、資本業務提携を前提に話が進んでいるということだ。しかもふたりはもうすでに恋人同士となり、深い仲に発展している。 考えれば考えるほど、辻褄が合ってしまう。 このところ仁がグロウセオリーに顔を出さなかったことも、打ち合わせを真壁に任せきりにしていたことも、全部そういうことだったのだ。 そう考えると、苦い笑いが漏れた。 ――あたし、もう、無理じゃん……。 せっかく仁が告白してくれたのに、澪がぐずぐずしていたせいで、仁はほかの人のところに行ってしまった。直哉に受けた傷を引きずっていると伝えたとき、仁は理解してくれた。だから、ずっと澪のことだけを好きでいてくれるのだと、澪は勘違いしていた。 本当に馬鹿だ。 待っていてくれるなんて。 十七年待った人に、さらに待たせておいて、それを当たり前だと思っていた。 失うのがこわい、などと思わなければよかった。だってもう、始まる前に、仁を失ってしまったのだから。 そのとき、
忙しいのに、わざわざ仁は差し入れを持ってきてくれた。 ひと目会えただけでも、心のなかがじんわりとあたたかくなった。 ――いつももらってばっかりだから、あたしも……。 明日は取引先との打ち合わせで外出の予定がある。そのときに、仁に差し入れを買って、持っていこうかな? 急に行ったら、驚くかな?* 千華にふたりで会おうと言われたが、レストランやカフェでは誰が見ているかわからない。業界内では、婚約間近だと大きく騒がれている。自分は雑誌の取材を受けたこともあるので、顔を知っている人もいるだろう。「ふたりきりで会っていた」などとSNSで拡散されるのも面倒だ。そこで、千華の申し出は了承しつつ、会う場所はダーマコードの会議室に指定した。 約束の時間より前に、会議室に入り千華の到着を待った。蛍光灯の光が冷たく部屋を照らしている。仁は椅子に体重を預け、腕を組んで目を閉じた。 しばらくすると、ドアをノックする音が聞こえた。「どうぞ」 仁が声をかけると、ドアが開き、千華が会議室に入ってきた。まっすぐな黒髪。白いシックなワンピースが、まるでウェディングドレスのように見えた。「失礼します」 丁寧に頭を下げると、千華はまっすぐに仁と目を合わせてきた。「本日は、無理を言いまして申し訳ありません」「いえ、とんでもないです。どうぞ、おかけください」 仁の向かいに腰を下ろした千華は、背筋を伸ばし、膝の上で両手をそろえていた。仁が口火を切ろうとしたとき、千華が先に口を開いた。「高宮社長、今回の提携の条件の件でお話をしたいと思います」「はい」 仁は千華をまっすぐ見つめた。腹の奥に力を入れる。「私と高宮社長との婚姻の件ですが、私は前向きに考えたいと思っています。あなたとなら、素敵な未来が想像できるからです」 頬は少し赤らんでいるが、言葉は震えていない。「最初は祖父が勝手に進めていた話でしたから、あまり気乗
仁の言葉の後、三人の間にしんと沈黙が訪れた。喧騒が遠のいていく。 有村は口角を上げて、ニヤリと笑った。「へえ……。そんな感じですか」 澪が有村に目を向けると、有村は笑ったまま、視線だけを仁に向けていた。 なんだ、この一触即発状態は……。仁は、今にも噛みつきそうな顔だ。「と、とりあえず、もう遅いですし、帰りましょう? ここにいては迷惑になりますし」 澪はふたりに向かって声をかけた。駅前で見目のよい男同士がにらみ合っているからか、遠巻きに女性が集まってきた。「あれって、なんていう会社だったっけ? 社長だよね」なんて声も耳に届いた。 そうだった。仁はビジネス誌だけでなく、ファッション誌にも顔出ししている。目鼻立ちの整った顔立ちなのだから、世の女性が放っておくはずがない。「あの背の高い人、モデルかな? めっちゃかっこいいんだけど」 一方の有村も負けていない。すらっと背が高い。切れ長の目は冷たそうに見えるが、ほかの顔のパーツとの相性なのか、やけにやさしく見える。 とにかく、このふたりは黙っていても、人目を引くのだ。「ああ、そうだな。澪の言うとおりだ。送っていくよ。澪、行こうか」 仁がすっと手を澪の腰に回した。まるで恋人のように。「じ、……高宮社長?」 澪は逃れようとしたが、ガッチリと回された腕は、澪の力では剥がすことができなかった。 仁が歩き出そうとしたとき、澪は有村に腕を掴まれた。「……え?」「僕が朝倉さんを誘ったので、僕が送って帰ります」 その言葉に仁は目を細めた。まるで氷のビームでも出てくるのではないかと思うほど、まとう空気が冷たい。「ご配慮、感謝します。俺、車で来てるんで、俺が送ります」 そう言うと、仁はさらに澪の腰を自分へと引き寄せた。 ――ちょっと、一体どうなってるの? 気づけば、澪は
仁がなにか言うより先に、有村が「決まりですね!」と手を叩いてしまった。そのせいで、あの場では「業務ですので」としか答えられなかった。 翌日、有村とともに市場リサーチに向かった。待ち合わせの駅に行くと、すでに有村の姿があった。「朝倉さん!」 有村は手を高く挙げ、ぶんぶんと振っている。そんなことをしなくても、背が高い有村は遠くからでも十分見えるのに。 まるで大型犬が尻尾を振っているような姿を見て、澪は思わず口元をほころばせた。「お待たせしました」「ぜんぜん、待ってませんよ。あ、荷物持ちますよ」 澪の肩から下がっているバッグに、有村はすっと手を伸ばした。別に重たいわけでもない。「いえ、大丈夫です! そんなに重いものでもないですし」 澪が断ると、有村は眉を下げた。「そうですか……。当たり前のことをしたんですけど、迷惑でしたか?」「いえ、そういう意味では……」 迷惑というより、外国の紳士のような態度に戸惑っただけだ。「さあ、行きましょう!」 有村は気を取り直したように、声を張り上げた。 やけに張り切っているように見える。 ――まあ、楽しく仕事をしてくれるのなら、いいか。 澪は先導する有村についていった。「今日は、百貨店やスーパー、ドラッグストア、セレクトショップなどを、できるだけ回りたいんです」 有村はスマホのマップアプリを開いて言った。「そんなに回るんですか?」「はい。たくさん見たほうがイメージしやすいですから。Onlyé for youのデザインに似たものがあれば、参考にしたいと思っています」「そうなんですね」 上司は有村のことを「ちょっと軽い」と呆れていたが、そんなことはなさそうだ。仕事はしっかりこなすようで、内心ほっとした。 有村のスマホを見ると、マップにたくさんピン留めしてある。今日、







